名前って何なに?
バラと呼んでいる花を 別の名前の名前にしてみても美しい香りはそのまま
『ロミオとジュリエット』シェイクスピア(小田島雄志訳)
俺はなに人だ、いや何者だよ!?
何者ですらねえ!
物体”X”だ!
つーか、お前誰だよ
決めた韓国人になる
「在日」ってことはオレらにいずれ出ていけってこと
名前って何?
広い世界を見るのだ
これは僕の、恋愛に関する物語だ
文句あるか
心に残る台詞の多い話でした。
上は主人公の台詞のみだけど、他の登場人物の台詞も残る残る。
第123回直木賞受賞作の、金城一紀原作の待望の映画化、らしい。
「待望」か。なるほど。
原作読みたい。読もう。
おわかりですね、惚れましたこの映画「GO」!
金城氏も、いわゆる「在日」。
彼のプロフィールを見ると、当作品が自身の体験によるものだとわかる。
「在日」という重くなりがちなテーマを取り扱いながら、青春痛快恋愛物語となっているのがよい。主人公柄悪いし。
この躍動感、疾走感、イマドキ感、そして何より軽妙な台詞回し、である。つい笑ってしまう。たまらん!!
ストーリーとしては、わかりやすい。
かいつまんでいうと、民族と友情と恋の物語。かいつまみすぎ。
てゆか、ストーリー言い出すと全部書き出したくなるほどですねえ。
役者もほんといい感じですね。
窪塚洋介(杉原)は「GTO」で惚れた。
今回ちょっと演技が気負いすぎた感もあったけど、魅力爆発。カッコイイ。
柴咲コウ(桜井)は、金城氏が桜井はもともと彼女をイメージしたヒロインというだけあって、なんてゆうかもう、ガチッと。
「バトルロワイアル」の頃より好み。ちょっと太ったか。それがまたイイのー。「のー」て。
大竹しのぶ(道子)は、杉原のママ。
すげー台詞あります。↓これ
曰く「わかったような口きいてんじゃないよ! ガキなんだよ、ガキ!」
一見なんてことないですが、劇中で見るとすっごい含蓄ある言葉です。
山崎 努(秀吉)はパパ。口より手がでるパパ。
しかし深く大きな思索と愛を持つ男を見事にみせてくれます。
さらに主要脇役に杉原の先輩タワケ役にいつまでも似合うぜ学生服・山本太郎。杉原の親友・正一(ジョンイル)に細山田隆人とか、すごい。
つか細山田クンよう知らんけど。や、顔は知ってる。
この細山田演じる正一の言葉もスゴイよ。
「僕たちは国を持ったことなんかありません!」って。
正一に絡む、ちょっとした誤解がうんだ悲劇がまた、かなしい。お互い。
何が「お互い」かは、ぜひ実際に観てくださいナ。
他にも萩原聖人、大杉漣、塩見三省あたりがまた、イイカンジのチョイ脇っす。
あと、キム・ミンやミョン・ケナムなど、韓国でも有名な人たちがあちらの国の興味も誘っている様子。
なんでもいいけど、とにかく気持ちのいい映画です。
ところで今回、このコーナーの主旨に反してみようと思う。
つまり、映画が取り上げた問題を考えてみる。
映画はエンターテイメントとして楽しめりゃいい。
私にとってはそれだけでいい。
だけど、今度はなんかいろいろ考えてしまったから。
まずショックだったのは「在日」という言葉。
それは「よそ者」。この認識はあった・・・と思ってた。
けれどそれは、イコール「出ていけ」が前提の言葉と杉原が言った。
気づかなかった。
・・・でも、そうだよね。
そして国籍のこと。
杉原も原作者の金城氏も、朝鮮籍から韓国籍へ自らの意志で変更した。
「決めた韓国人になる」て!!
国籍なんてそんなもんだ。
国なんてないんだ。
理想世界の話ではない。論理的にそんなものはない。
土地はあるし、民もいる。でも国なんてどこにあるというのか。
国土も国民も、国そのものでは決してない。
教えてくれ、指し示してくれ。見せてくれ。
無いよ、そんなものは。
あるのは私の中にだけ。
即ち、国とは、私がそれを国だとしているだけであって、実体なんかない。
そんなものにとらわれるのは馬鹿げている。
同じように民族の誇りなんてのもそうだ。まさに埃のようなもんだ。吹けば飛ぶ。
私は日本人であるということに、別に誇りなどない。
日本は過去に素晴らしい文化があり、美しい自然が広がる国かも知れない
しかしそれは私自身とは何の関わりもないもので、それに誇りを持つというのは勘違いでしかない。
これだけだと侮辱してるって感じる人もいるかも。
そういう人とは誇りという言葉の捉え方が違うのだろう。
敬意や愛や影響がないとも言ってはない。言葉遊びに感じますかね。
名前なんかそれぞれを区別するための道具だ。
国籍もそう。
なのにそうしたレッテルが、その本質ということになってしまうことが多い。
そうじゃないのにね。シェイクスピアの言うように、バラはバラという名前を与えられただけであって、それがバラ「そのもの」では決してない。
そう実は誰もが物体”X”なのだ。
この表現はすごくわかる。「物体」っていうのは表現の便宜上ね。
いろんなカテゴリー、所属をすべてとっぱらった裸の自分のこと、それが物体“X”。
「私」とは何モノか、その説明をできる者がはたしているのか。
レッテルを、肩書きを、所属を取り払ったとき、その「私」を説明できるか。指し示せるか。アナタ、自分の鼻のあたり指さしますか?
それを指さしてるのは、じゃあ誰なんだろね。(意味わかるかなあ。稚拙な表現で申し訳ない。)
多重人格者ならその時どうすんだろ。
「私」は脳なのか肉体なのか、それともいずれでもないのか。
「私」自身も知らず、いや、知らないことも知らず、考えることすらなく、そう根本すらわかってないのに、国籍だとかなんだとか、次を次を語ろうとする。規定しようとする。
不思議。
「在日」でもほかの差別でも、生活における様々なことでもなんでもいい。
知らないままでいることはやはり罪だ。マズイ。
知らないことが罪ではないよ。そのままででいることがいけない。
自身の反省をおおいに込めて。(←なんかあったらしい)
話がとびまくりすぎて、なんか焦点が絞れてないっぷりがいつもにも増して激しい。
あー、原作読みたい。(注:しばらくたって読んだ、良かった)
そうそう、読むといえば観賞中ひとつマンガ思いだした。
ぜひこちらも読んでいただきたい。「寄生獣」(岩明均)。
なぜ想起したかは読めばわかる。わかれ。
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